不動水産株式会社の沿革

 

現在の呉市広町で「生かき」と「白うを」の元売りを始める。
当時は広島から「生かき」を、安芸津から「白うを」を仕入れ、四国の今治、松山へと舟で売りに出かけていた。牡蠣は江戸時代からの広島名物であり、各地にその名は知れ渡っていたため、当時としてもかなり良い値で売れたらしい。
一方、白うをは、牡蠣ほど儲けにならないのと、漁獲量の減少のためか、昭和13~14年頃で元売りを休止している。

 

太平洋戦争勃発、牡蠣も統制品に指定される。
日本が第2次世界大戦へと歩み始めるとともに、鉄鋼をはじめ各種の生産材や食料品が統制品に指定されていった。太平洋戦争の翌年、牡蠣も他の生鮮魚介とともに統制品に指定された。

 

1945年8月6日、広島市に原爆が投下された。広島市からみて呉のまだ先にあった不動商店は、幸い被爆を免れた。
戦後の復興が一段落し、高度経済成長の幕開けとなった昭和30年代、牡蠣の売上も年を追うごとに伸びていく。特に最盛期となる12月後半から大晦日にかけては、出荷作業で徹夜が続くほどの忙しさであった。
この頃はまだ、創業時と同じく個人経営である。また、牡蠣の販売がシーズンオフとなる春から秋にかけては、農業もして生計を立てていた。

 

衛生管理設備を導入。
昭和41年の12月に発生した、牡蠣の生食が直接的な原因の食中毒事件がきっかけとなり、牡蠣の処理に関する条例が改正された。この新条例の基準を満たすための設備には多額の資金が必要で、その時不動商店では、牡蠣の販売をやめる話も出た。
しかし、牡蠣一筋に打ち込んできた不動商店、ここまで歩んできた道のりを絶やしてはいけないと、設備の導入へ踏み切ることとなった。
こうして、より衛生的に牡蠣を処理できるようになった。

 

広島工場を開設。
処理作業における徹底した衛生管理と根強い牡蠣人気のおかげで、牡蠣の需要は再び上昇していった。
不動水産としても、増え続ける需要に対応を迫られていた。そこで、新たに生産設備を整えた工場を広島市南区向洋に開設した。

 

広島市南区丹那町に冷凍庫を開設。冷凍牡蠣の生産を始める。またこの年、個人商店から株式会社に組織変更する。

 

岡山工場を開設。急速冷凍機を導入。
需要が拡大する冷凍牡蠣の生産に対応するため、現在の岡山県浅口市寄島町に岡山工場を開設。わずか数分で凍結し、解凍時の品質も良い急速凍結機を導入した。

 

牡蠣の冷凍食品メーカーであるタカノブ食品㈱のグループ企業となる。
タカノブ食品グループで、不動水産㈱は生鮮牡蠣の生産・販売の役割を担う。
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